昭和49年04月12日 朝の御理解



 御理解 第99節
 「無学で人が助けられぬということはない。学問はあっても真がなければ、人は助からぬ。学問が身を食うということがある。学問があっても難儀をしておる者がある。此方は無学でも、みなおかげを受けておる。」

 今度の御本部参拝を頂いて、これからの合楽のいろんな布教についての事に、布教部長である谷口先生に、部長先生に面接に参りましたら、ちょうど風邪具合が悪くて休んでおると言われる。実は先方のほうからこの頃若先生が行った時に、いろいろ話を聞いて是非教会長私に会いたい、また布教に出る先生方も出来たら一緒に会いたいと言った様な事でございましたから、電話をかけて頂きましたら、「起きては居りますから、もし出来ればお訪ね下さい」という事であった。
 それで参りましたらちょうど久留米控所の下の方です。下の方でしたがお会いしました。大変この合楽教会の、教会としておかげを頂くために、良い意味ですか悪い意味ですか、大変お世話になった先生であります。まぁこの先生がおったから、いつまででん合楽が教会になれなかったというような方なんです。けどそれはまあひっくるめて神乍らであった。この方も合楽のために使われた先生だなあと思うんです。とても優しい先生です。けれどもその言われることが、今日の御理解じゃないですけども。
 とにかく例えば海外なら海外に布教に出ると、特にあのブラジルとかハワイとかの話を久富先生それから末永先生と公子さんと三人連れて参りました。第一その語学が出来るかとか、学校はどこ迄行っとるかとか、という事ばっかりなんです。それで私は申しました。「語学なんかという物はもう一年もあちらにおりゃあ大体話す様になりますよ」と、「私も北京に居ってから、もう一年したらそれこそ電話でお話が出来るという位になると、だいたいまぁベラベラ話さなきゃ出来ません。
 もちろんそれは御理解を説くといったような事やらもっとやはり難しいでしょうけれども、それはそれでね稽古させてもらう。そんな事よりも何よりも私は、問題は人が助からなければですね」と私申しました事でした。どんなに例えば語学が出来ても、学問を身に付けておりましてもです、いわゆる信心の信(しん)を持たなかったら、信念を持たなかったら人は助かりはしません。問題は人が助からなければなりませんから。
 まぁ話を聞いてみますとブラジルなんかは長い間に、そのう金光様の先生という人達が一人二人は行ってます。けども全然道は開けてないと。言うならばもう前人未踏と言うても、それの方が本当だろうとこう思うくらいな所へ、例えばその本気でもう骨をあの地に埋める覚悟で行くといったようなものが、なら今まで海外布教は沢山言うて居りますけれども、誰ぁれも「なら私が行こう」なんて言う者が無かった所へ行こうと言うんですから、大抵な覚悟がなからなければ行けるもんじゃない。
 ただ語学が出来るから私は行こうたって、そんな事で人が助かる筈がない。まぁ後でそういう話を聞きよってから、何かこうそんなものを感じさせて頂いてね思うんですが、結局この道はね無学でも人が助かっておるということ。私は学問があってはいけないというのではない。けども学問があっても真がなければ、信がなければ人は助からんと。いうことはね学があっても信がなければ自分自身も助からないということ。いうならばここに教祖が仰っておられる、学が身を食うのである学問が邪魔をするのである。
 そこでですね教育は受けなければなりません。学問もやはり身に付けなければなりませんけども、芯になるものは自分自身が助かるということで。それにはね私はどうしても必要なのは、信心による包容力だと思うんです、いうならば大海のような信心です。例えばならブラジル布教ならブラジル布教に例を取りましてもです、いわゆるあちらの人達も日本人も、いわば助かるということはです。そんなら語学のベラベラ出来るあちらで日本人の人が助かったらええ。
 その人がなら代行してくれたらええ、話をせにゃならん時に。もう実を言うたらもう実に私のそれは簡単なことなんだ。ならここでもです。私は無学に近い男ですけれどもですね、なら大学を出た方達が私の手になり足になりして、学が必要な時にはその学を駆使して下さるようにです、まぁ本当にこの位の事も分からん先生が布教部長しとったって、金光教の本当の、いわゆる合楽で言うておる、その「和賀心時代を世界に」といったような事が出来るはずはないと。
 ちっとはもやもやしなさったろうと、久富先生がいうてござる。合楽ではもう和賀心時代を世界に布くという、覚悟で海外に出る者は出ろというておるのですから、その心配いりませんよといわんばっかりにいわれたんです。ところが和賀心時代を世界に布くという意味がわからん。馬鹿んごたる話。私もちいたぁもうお話し聞きよってもやもやして来た。本当にこりゃね、なら布教に出るとか出らないとかそういうこと問題じゃないです。信心信奉者の一人一人がやっぱりそれなんです。
 あれがでけなければということはない。信さえあれば真さえあればおかげが受けられるね。又は人も助かる。自分が付けておるいうならば少しばかりの教養が、却って邪魔をするような傾向があるということをです、ここでは「学者が身を食う」というふうにもいうておられます。ですから信あって学問です。又は学問あってその学問の中に信をたたき込んでいくという、信心がなされなければ駄目です。ただその理路整然としてお道の話をする。しただけで誰ぁれも助かりもせんし集まってもきゃしません。
 問題は助かるから集まってくる。まぁ又それでなからなけりゃ本当の布教にゃならんです。白人もなからなけりゃ黒人もないね。問題は本当にそこにですね、例えば今までかつて聞いた事も見たこともないような、ならおかげがもし現われるとするならです、言葉は分からんでもですお参りをして来るでしょう。いやその人達に話をしなければならない。言葉を判ってもらわなければならんならです、ならブラジルで言うならです、あちらでも沢山日本人がおるのですから。
しかし長年行ってもうあちらポルトガル語だそうですが、ポルトガル語でもベラベラお話のでける人が助かってです、先生の手代わり口代わりをしてくれる人があればそれでいいじゃない。「もうこげなみ易い簡単な事ないんだ」と私は言いたかったですね。それにそのうまぁ学問は学校はどこまでだん行っとるか、語学は出来るか英語は出来るかと、いったような質問をされるんですけども、「まぁそげな事どげんでんよかですよ」っちまぁこんなまぁいいたいような感じ。
 そういう衝動を感じるようなもう実にもう何というですかね、迫力のない布教方針です。行った者は皆んなそれを感じただろうと思うんですけどもね。もうとにかく語学なんかはあちらへ行って、必要なら必要に応じて皆んなが覚えますよと。問題はこの信心を持って行く事なんだといったような布教方針じゃない訳ですね。まぁ言わせるならば大学でも出て語学が達者でと。であれば誰でもいいようにいうけれども、その誰でもいいけれども、その誰でもいいけれども誰ぇ一人としてなら。
 私が語学出来るもんが「私がならブラジルにでも行きましょう。アメリカにでも行きましょう」と言うのはね。それこそいないじゃないか。百年も経っておるのに、まぁだブラジルにそれこそただ何かのある事情でです、ブラジルに行ってそしてまぁ人が助かるならということでもあったでしょうけども、事実は助かっていないということ。有名無実になっておるということ。本当に私はそれを聞きながら、ほうそんなに開けていないのかと、本当にもう前人未踏の金光教は、としてはのところだなというふうに感じて。
 私共は聞きよってから却ってファイトが湧く感じが致します。それを私は本当にそれをいいたかったですね。言葉なんかは問題じゃないと本当は。まんま出ておればいつか覚えるし、そうかというてね語学が出来たから覚えたからというて、人が助かるのじゃないと問題は人が助からなけりゃならん。人が助かりさえすればよい。助けるいうならば力を徳を持って行かなければいけない。後は神様がおかげを下さるのですよという様な信心を頂いた人が、これは布教部長にでもならなければ駄目だという風に思いましたね。
 そこでんならこりゃ私共がですならおかげを頂いていく事。こりゃ大きなおかげを頂く為に大きな信心をせよではなくてです、私共はやはり大きな心を頂かなければ駄目です。いうなら「大海の様な信心をさせて貰わなければ鯨は棲まん」と四神様は教えておられるが、鯨が棲むとか棲まんじゃないです。大きな心を頂くという事が助かっておる事ですから。昨日御本部から帰らせて頂いて本当に神乍らにおかげを頂いて、私共が二時間なんぼ位遅れました。皆さんも三時頃に早い方は着いてその間皆さんが待ち遠しかった。
 待ち遠しかったろうとこう思うのです。けれども私は実に神ながらに、皆んなが五時の御祈念を頂いて帰れる様にというのが、私が全部にいうておった事ですから、皆んながゆっくり帰れば、丁度そんなに二時間もここで待たなくてもよかったんですね。そればジャジャー言うて帰ってくるけん二時間も待たないけん。また三時頃帰ったら皆んなが帰ったらとても五時の御祈念なんか頂かりゃせんです。もう皆んなが散りじりばらばら帰ってしまうでしょう。
 ですから本当に神乍らにおかげ頂いたと私は、自分でもいい思いもしました。けれどもあのう何かこう私共が二時間も、二時間以上も待たしたからといったような雰囲気がちょっとありましたから、その事を神様にお届けをさせて頂きました。そしたら以前朝鮮の釜山に、寒牡丹という銘酒がありました。お酒の銘柄です。その寒牡丹のそのレッテルにですね、藁でこうそのう作っていわゆる雪霜を避けるためにね、こうあのう例えば植木やら花やらにこうするでしょう。覆いを作るでしょう。
 そういう覆いがあって中に牡丹が半開きになっておる、あのう絵が付いてるんです。寒牡丹というその銘酒のそのレッテルに。それを頂くんですよ。そしてねそのうこうやって丁度そのレッテルを頂くんですけど、中に牡丹のその花がない。ただ上から霜覆いがしてあるというだけの情景を頂きました。お神酒という事は勿論、信心あり難き勿体なき、というそういう意味であろうとこう思いました。霜覆いがこうしたレッテルにはそれが何ともいえん風情のね。牡丹がこう半開きなっとるとが。
 上から藁でこう覆いをしてある図なんですけれども、私が御心眼に頂くのは中に花がないというのです。じっと例えば来る所の春を待っておる姿勢なんです。昔からやはりあの「待つ身になるな」とこういってあります。待つ身になるという事は非常にやっぱりじゅつない事です。けれどもその待っておる間にです。中に花がなからなければ値打ちはないです。「どげんしござるじゃろうかいつまっでん帰ってこんな」というて、イライラモヤモヤしておるだけでは、いわゆる有り難き勿体なきにはならんのです。
 寒牡丹にならんのです。その間を私はですね、信心で頂かなければいけないということなんです。二時間という間をいうなら、まぁイライラモヤモヤして待った人も幾らもありましょうが、待ちきれず帰った人もありましょう。けどもそこを大事にするということが信心なんです。だからそこん所の私は工夫がなされなければならない。日頃頂いておる信心をそういう時に表さなければ、待った二時間というものがマイナスになる。イライラモヤモヤばぁっかりでしまえる。例えば汽車の時間を待つでもそうである。
 もう本当にやはり待って居る汽車が来ない。待遠しい。それこそプラットホーム行ったり来たりしょうごとある。もう本当に急いどる時には上りに乗らんならなくても、下りが来るとその下りにでも乗りたいごたる衝動すら感ずる。だからその待っておる時間をです、例えば本を読むなり、女の方であったらばねこの毛糸を編むなり、それこそあっと言う間に時間が来る。だけではないそれだけ仕事をしとったり、本を読んだりして勉強をしたりしておる。そういう工夫が必要なんだ。
 私が昨日本当におかげを頂いて、ちょうど御祈念が終わった所で、私共が帰ってきた。ちょうどおかげを「皆んながもう皆んな五時の御祈念を頂いておかげ頂いて有り難かったね」と言うたけれども、なら有り難なかった人も沢山あっただろうという事で御座います。私はそういう信心がそれが信心なんです。そういう信心を身に付けておかなければいけんのです。例えば今日は包容力という事を申しましたがね。そういう時にイライラモヤモヤせんでよい人でなかなければ、大海のような信心とは言えないです。
 そうでしょう。だからそういう時にもしイライラモヤモヤしておったら、日頃の信心の値打ちはないということになるです。小さい信心だということになるです。勿論小さい信心ですからイライラもする。モヤモヤする。モヤモヤするからおかげにならん。そういう時を本当に豊かにゆったりしたです、はぁ二時間待たして頂いておったおかげで、御本部参拝の皆さんの、いうならば例えば「おかげ話も聞かせてもろうた。又おかげ話もさせて頂いた。しかも五時の御祈念まで頂いて、おかげを頂いた」と。
 いう人がおかげを受けたことになるのです。イライラモヤモヤした人は、もうおかげを頂いておらんのです。今までの信心と同んなじ事なんです。しかも親先生の車だけが遅いのですから、そらもう神様の御神意、御神慮に違いはないという頂き方なんです。どうだったでしょうかね。確かに三時から三時に到着した人達は二時間何十分という間をどんなふうで待っただろうか。日頃の信心がそういう時にどういうふうに活かされただろうか。私が頂いたところによるとですね。
 いうなら寒牡丹のレッテルじゃないですけれども、寒牡丹というお酒、有り難き勿体なきではなくてです、中は空ということになっておった。その例えばじっと春を待つというか時間を待つという間に、中に花がこうもう咲かんばかりにしておる。その上にいわばこう藁つとで作ったね、雪霜を避けるところのその準備があって、中に花が咲いておって、それが一つの絵になっておる。それが一つの風情である。それが信心の風情である。そういう信心をです、私は身に付けて行かなければいけない。
 頭ばかりで行くとですとにかく言うならば「学が身を食う」ということは、理屈だけでいうとイライラモヤモヤする。だからそのね、学とか理屈とかというようなものを抜きにしなければ、いわば真のものは生まれて来ない。真(まこと)がなければというのは真、真をしん真がなければ。だから私共の信心にどれ程しの真があるか。それは只素晴らしいタイミングようこうおかげは、私は素晴らしいタイミングを頂いたと思うて、皆さんにもおかげ頂いた丁度お繰り合わせ頂いたと、こういうたり思うたりしておる。
 けれども何かちょっとそういう雰囲気を感じましたから、神様にその事をお礼申さして頂いたら、肝心要の中に牡丹の花のない、いわゆる寒牡丹の図柄を頂いた。折角ここんところに素晴らしい、いわば有り難いも風情もあるおかげが頂けるのに、いうならば待つ汽車を待たせて頂いて、待ち長いと言うてプラットホ-ムをあっち行ったりこっち行ったりしとるようなものではなかろうかと思う。そこんところに日頃いうならば勉強したいことを勉強するといったような行き方になってくる。
 二時間待っておったおかげでこういうものを得らして頂いたいう豊かな心、そういう心におかげがある。大海のような信心とかね信心辛抱とかと言うけれども、肝心要の時にその信心辛抱が出来ないで、信心辛抱の値打ちはないじゃないか。「無学で人が助かる」と「此の方は無学でも人が助かっておる」という。又は無学で人が助かっておる、助けられるということは。
 そういうところが別人とは違うという信心を頂いておる人、そういう人じゃなかなければおかげにならんと思うです。人がイライラする時に、成程神様の御都合ですがと思えいえれる人です。そういう信心を私は身に付けた時に、それは無学でも自分もそこに助かっておるだけではなくて、人までもそこにゆるやかな、人までもそこにイライラさせない働きを持って行くような信心をですね。
 私は頂きたいと思うですね。「無学で人が助けられんという事はない」。学問はあっても真がなければ、信心はしておってもです、そういう時に真が出て来るような、信心を身につけて行かないと、いよいよおかげの受けられるという時に、イライラモヤモヤしとらんならんで、おかげの頂ける筈はない。私は信心とは、そこを頂いて行く事が信心だと思うですけどね。
   どうぞ。